母国語の国で暮らすと、100%言葉が理解できて、その言葉の文化的背景までわかるので、聞きたいくないことまで聞こえてくる。さらに、日本は情報過多の気がする。私にとって外国に住むことの利点の一つは、自分が欲しい情報だけを入手できること。情報収集が遅れることもあるけれど、命に関わることでなければ問題ない。
だけど、病院となるとよく理解したい。その国の言語を理解していないと、不安でしかない。オーストラリアで病院にかかる場合、まず一般開業医(GP = General Practitioner)に行って、おおよその病気はここで診察、処置をする。 私の住む地域には、GPは母国語の医師がいる。そこで治らない場合、専門医(Specialist)を紹介される。専門医は、英語話者。
風邪や怪我、既往歴のあるものだと少しくらい言葉がわからなくても予測しながら聞くことができる。でも、今回は自分の身体になにが起こっているのかわからない、初めてかかる病気。GPの処方箋でもらう薬では治らなくて、専門医にかかることになった。
医師は英語話者なので通訳を頼んだけど、いないと言われた。このときの私の英語力は自分の中のMAXだった。語彙の量も聞き取りも。それでも病気に関する語彙は無いに等しかったので、英語が十分に理解できないことを伝えると、先生もわかりやすく説明してくれた。
だけど、先生が言っている薬や治療法がどんなものかさっぱりわからない。母国語なら、知っている言葉を駆使して、その場で納得がいくまで確認できる。英語では、それがかなわない。だから今回は、診察が終わってから日本語で調べまくった。
私から見ると不自由なく英語を話す、ナース志望の友人は、外国語は一生勉強だという。永住権申請で IELTS 8 を取得したとしても、生活のいろいろな場面でずっと言語がついて回る。IELTS は大学に入るための指標ではあるけれど、トレーニングで習得した英語をテストの上で、ある程度の形式に沿って使いこなすだけの英語。
オーストラリアにも、自国の言語だけで、そのコミュニティーの中だけで暮らしている外国人もいる。でも仮に英語話者のパートナーができて、その家族や同僚との付き合いでは、教養はさることながら、言語が十分にできないと会話が成立しない。子どもっぽい話し方だと対等ではいられない、肩身の狭い思いをする。欧米社会は、同僚との付き合いは家族同伴。
うわべの話だけでいいのなら、ある程度話せたらいいのかな。だけど、仕事をするとなると、年齢に合った教養のある話し方や言葉を話す必要がある。知的な教養のある言葉と、その概念まで必要だよね。ネイティブ並みの理解と、会話。
母国語だと中学校や高校で自然に得るであろう、言葉の背景や概念。外国語だとそこの部分が全く抜け落ちている。丁寧語やインテリの言葉も、母国語なら使いこなせる。でも、外国語だと私には遠すぎる道のり。外国で暮らすということは、言語の鍛錬が欠かせない。”できた” ということは、一生ないんだろうな。