徒然なるままに、最期の選択って:note

ジャン=リュック・ゴダール氏のスイスで自殺幇助というニュースに目が止まった。現在、いくつかの国で自殺幇助や積極的安楽死が認められていて、不治の病に限られている。オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、合衆国のいくつかの州、カナダ、スペイン、ニュージーランド、そしてオーストラリア。まだまだ数えるほど。

少し前にあったイタリアで最初の安楽死を思い出し、記事を読んでみた。10 年前の交通事故で四肢麻痺になった男性(44)が、24 時間体制の介護が必要な生活に肉体的にも精神的にも限界がきていた。自立したいという願いが 2 度と叶わず、他人への依存で自分があることは、まるで「大海原を漂う船」のようだと。長い法廷闘争の後、法的な承認を得て「今、私はやっと好きなところに飛んでいけるようになった。」と遺書にあったそう。

延命治療や薬、介護技術の進歩など、家族にとっては、ありがたい。でも、患者本人にとってはどうなんだろう。

成田さんとひろゆきが話す番組で、彼らが高齢化社会について話していたときに、少しずつ安楽死も認められるようになっていくだろうと言っていたけれど、そういうの、日本が最も苦手とする分野。このトピックで、生活保護やベーシックインカムのことも話していたけど、日本が革新的な制度をつくったのを見たことがない気がする。それはさておき。

以前、この問いを投げかける番組が日本でもあった。安楽死のためにスイスに渡った日本人女性のドキュメンタリー「彼女は安楽死を選んだ(NHKスペシャル, 2019)」。ある日、多系統萎縮症といって、自分で話すことも、動くこともできなっていく病を患う。韓国で大学を卒業後、通訳をされていた方で、安楽死は「自分の尊厳を守るため」の選択だった。「私が私であるうちに安楽死をほどこしてください」。見ていて涙が止まらなかった。

「自分で死を選べるということは、どうやって生きるかを選択することと同じくらい大事なこと。」重い言葉だった。そこに向き合った人にしか発せない言葉。

「人間」も、「生」も「死」も、本来意味を持たない。「死んではいけない理由はない」。けれど、そこに家族や感情が絡むと、死んではいけない理由がたくさん出てくる。「人間」とか「生」とか「死」とか誰にも正解が出せない問い。当事者が直面して初めて考えて、答えを出すもの。だとすると、そこに選択肢があって、本人が選択する権利があったほうがいい。

『LIFE SHIFT』で「人生100 年」という言葉を見せられて以来、長い、が率直な感想。先日、クイーン・エリザベス2 が老衰であったことが発表された。彼女のように 96 歳まで輝いて最期を迎える人なんて、なかなかいない。100 歳までなにをして生きるんだろう?生きることも死ぬことも簡単じゃないな。

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