徒然なるままに、勉強って:note

「勉強」って世の中で言われるものって3 つぐらいの全然違う要素が混じっている。成田悠輔さん、再び。普段わかっているつもりで使っている「勉強」という言葉をまるで視覚化するかのように、聞いている人に伝える。彼の話を聞いていると、頭の中が整理される感じがする。勉強の3 つの要素から順番にたどって記してみる。

1 つは「手段としての勉強」で、単位をとるとか卒業するとか、入試に受かるみたいなことの勉強。

2 つ目は、なんとなく、勉強することそのものがいいこと、人によっては楽しいことだっていう「目的としての勉強」。

3 つ目は、とりあえず皆と同じようなことをやる、「社会に生きる奴隷としての覚悟を養うための勉強」みたいなものがある。

この3 つは全く異質な勉強なのになぜかそれを混ぜ合わせて一緒にやっていて、なにかの目的を単純に達成する手段としては、すごく非効率なやり方をやっている場合が多い。

彼自身の勉強のやり方は、目的のために何をやったらいいかということだけを考える。そのための勉強にとって学校や授業が無駄なら行かない。人生で勉強したのは中学に入る直前と大学に入る直前の半年ほどで、「手段としての勉強」としては十分。もし、何年もやらないと無理なんだとするとそんなに向いていないということ。

学歴を高める、テストでいい点を取るための勉強って向いている人と、向いていない人がいて、今の社会だと向いていない人までそれをやらないといけないのは大きな間違い。スポーツだと適性が分かりやすく、向いていない人がそのスポーツを極めて、プロスポーツ選手になるために長い時間を浪費するということはない。だけど勉強の場合は、それが普通になっているというのが問題。

勉強を武器に生きていく人と、そうでない人っていうのをもっと峻別する仕組みや考え方があってもいいのではないかと思う。

なぜ、勉強はやらないといけないのかというと、昔はローテクだったので教育とか学校というのはみんなに同じものを提供せざるを得なかった。提供するものは、教科書と問題という量産できるメディアでやれるもので、平均的に役に立ちそうな、なにかの知識とか情報を与えるのが良さそうという感じで、勉強は定着している。そうやって、皆が同じような勉強を得意不得意にかかわらず、やるという社会ができてしまった。

これからは人によって教育の内容を変えるということが、どんどんできるようになっていく。それぞれの人が得意なことか好きなことを中心にやっていって、それ以外のものは抜けてもいいとなっていく気がする。今は、つらい過渡期なのかなと思っていて、多分、僕たちがそういうのに苦しめられる最後の人類になるのかもしれない。成田さんより。

産業革命以降、たくさんの子どもが苦しんできたであろう勉強。250年間、誰も手をつけなかったけれど、COVIDで変わらざるを得なくなった教育。みんながそこから解放されるとどんなふうになるんだろう。

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